2016年11月04日
「徳川家康の隠居をめぐる大名の情報戦略」
昨日は地域交流センターで第2回清水町・泉頭 歴史文化フォーラム
「徳川家康の隠居をめぐる大名の情報戦略」と題して
昨年に引き続き大嶌聖子氏(東京大学史料編纂所研究支援推進委員)の講演を聴き、
第2部では、
「歴史情報をどう活かすか~都市ブランドの形成に向けて」ど題して
下記のメンバーでパネルディスカッションが行われる。

<コーディネーター>
中山勝氏(一財)企業経営研究所常務理事 清水町行政改革推進委員会委員長
<パーソナリティ>
・望月宏明氏 静岡県文化・観光部伊豆観光局長
・高橋潤一氏 日本ユニシス(株)エコシステム推進事業部サービスビジネス部長
・石島さわか氏 SBSラジオ「Radio*East」メインパーソナリティ
<アドバイザー>
・大嶌聖子氏 東京大学史料編纂所研究支援推進委員
1部2部通して思ったのは、
1615年の年末年始にかけて全国の大名が泉頭に注目しており、
家来を派遣し場所取りをしていた。
実現はしなかったが
幕府を開き大坂の陣を終え、後顧の憂いをなくした家康が最期の隠居の地として
泉頭を選んだ事実は、もっと深く認識しなけれればいけない清水町の遺産である。
清水町の今後のまちづくりを考える上で、
この事実を最大限に活かして情報発信を行い、
定住人口・交流人口の増加に繋げられればと思う。
下記、資料メモ書き
**************
はじめに
*情報収集の様相
*情報を捉える
*主要登場人物
徳川家康 73歳、
細川忠興 53歳 細川家当主
細川忠利 30歳 4年後細川家の家督を継ぐ
以心崇伝 47歳 政権の相談役(手紙をまとめた本光国師日記)
板倉勝重 京都在住 寺社行政や朝廷対策を担当
1 家康の隠居情報
細川忠興→(書状)→細川忠利
書状1(元和二年 1616年 正月三日)
一、当年から三嶋の泉頭という所(※忠興はよくわかっていない)に家康様の御隠居所ができます。諸国の大名たちは、江戸の御普請、二回にわたる大阪の御陣で疲弊しているので、日雇いで普請を命令することを家康様は仰せ出されました。なかには御普請を是非行いたいと望む大名(藤堂高虎)もいますが、かたく無用であるということが家康様の考えです。しかしながら、諸国の大名たちは、泉頭で石場を占拠し(場所取りをしている)、石の上場まで取っている様子です。このようですので、石など割り作業する者がいたら、我先にとみなが石を用意しています。このような状況になったならば、諸国の大名に仰せが出るかもしれないとみな言っております。
書状2(正月四日)
一、三嶋にご隠居所ができます。御普請は日雇いで仰せ付けることが今のところ決まっております。どのようになっていくでしょうか。内々に普請の用意を行っておくようにとそちらの者たちにも申し付けておくようにしないさい。
書状3(正月十六日)
一、三嶋の御普請は早々に仰せがないことが決まり、本上州(側近の本多正純52歳)がそのことを申してきました。このようなことについても不審なことが多いものです。それでも何ともわからないことはいつもの事です。よくわかっているので、申すまでにも及びません。
(※政権の中枢ではいろんなことが起きているがいつものことだ)
↓
A 隠居所の普請の方法は日雇いで行われることになっている。
B 諸大名の対応はどのようであったか。
C 隠居所の普請は中止になった。
2 細川家の情報把握
情報源=以心崇伝 →細川忠興
書状Ⅰ 元和元年(1615)十二月四日
・家康が四日に江戸を出発し、駿府へ還御する。十四、五日ごろ到着。
・崇伝は明日、お暇し、六日出発予定。
・家康の隠居所が伊豆に決まった。
・家康が来年四月には上洛し、家光も上洛・参内される。
・諸大名が越年のため参上(駿府へ)すること、ほか大名衆の動向。
書状Ⅱ 元和元年十二月十五日
・家康が十三日に三嶋に到着。
・十四日、隠居所を三嶋に決めるにあたり、来年の方角の善悪をこたえた。
・家康が十八日には駿府に戻ってくる。
・忠興の駿府・江戸への参上を家康が聞き、ご機嫌であった。
・忠興の宿(駿府)を準備し待っている。
書状Ⅲ 元和元年十二月十七日
・家康が十六日申刻に還御した。
・三島に隠居所が決定した。
書状Ⅳ 元和元年十二月十八日
・遅くとも二十二、三日頃の駿府到着と江戸での越年をすすめる。
・諸大名とくに隣国衆の進物の様子ほか。
書状Ⅴ 元和二年正月八日
・泉頭の御普請が日用で命ぜられることが決まったこと。
・駿府を十五日か十七日出発し、十九日に縄張を行う日程が決定。
・藤堂高虎の意見(日雇いでは石垣はできない)
・泉頭の近所の山々で諸大名が石場を取っている。
・崇伝も泉頭へ御供の予定で、現地から連絡する。
書状Ⅵ 元和二年正月十二日
・十一日、泉頭の出発は延期となった。
・泉頭の隠居所は、とりやめになると思われる。
・昨夜の夜詰での家康の仰せ(竹腰邸を泉が湧くか掘らせよ)
・隠居所は竹腰氏の屋敷に定まるのではないか。
書状Ⅶ 元和二年正月二十五日
・家康の体調について
3 情報の本質を見る
・情報の差
・情報の精度
・情報の位置づけ
information(ただの情報)
intelligence(情報の状態、解釈、評価、格付けをして伝える)
以心崇伝
→板倉勝重 決定事項のみを報告
→細川忠興 未定の情報も伝える
※隠居所に関して石や人足の準備をする必要が出てくるかもしれない。
※崇伝の情報を見極めて息子に伝えている。
※判断の一つとして崇伝の情報を使う。
受け取る側の欲しい情報
細川家が欲しい情報(家康の隠居所)
全国の大名が注目していた。
「徳川家康の隠居をめぐる大名の情報戦略」と題して
昨年に引き続き大嶌聖子氏(東京大学史料編纂所研究支援推進委員)の講演を聴き、
第2部では、
「歴史情報をどう活かすか~都市ブランドの形成に向けて」ど題して
下記のメンバーでパネルディスカッションが行われる。
<コーディネーター>
中山勝氏(一財)企業経営研究所常務理事 清水町行政改革推進委員会委員長
<パーソナリティ>
・望月宏明氏 静岡県文化・観光部伊豆観光局長
・高橋潤一氏 日本ユニシス(株)エコシステム推進事業部サービスビジネス部長
・石島さわか氏 SBSラジオ「Radio*East」メインパーソナリティ
<アドバイザー>
・大嶌聖子氏 東京大学史料編纂所研究支援推進委員
1部2部通して思ったのは、
1615年の年末年始にかけて全国の大名が泉頭に注目しており、
家来を派遣し場所取りをしていた。
実現はしなかったが
幕府を開き大坂の陣を終え、後顧の憂いをなくした家康が最期の隠居の地として
泉頭を選んだ事実は、もっと深く認識しなけれればいけない清水町の遺産である。
清水町の今後のまちづくりを考える上で、
この事実を最大限に活かして情報発信を行い、
定住人口・交流人口の増加に繋げられればと思う。
下記、資料メモ書き
**************
はじめに
*情報収集の様相
*情報を捉える
*主要登場人物
徳川家康 73歳、
細川忠興 53歳 細川家当主
細川忠利 30歳 4年後細川家の家督を継ぐ
以心崇伝 47歳 政権の相談役(手紙をまとめた本光国師日記)
板倉勝重 京都在住 寺社行政や朝廷対策を担当
1 家康の隠居情報
細川忠興→(書状)→細川忠利
書状1(元和二年 1616年 正月三日)
一、当年から三嶋の泉頭という所(※忠興はよくわかっていない)に家康様の御隠居所ができます。諸国の大名たちは、江戸の御普請、二回にわたる大阪の御陣で疲弊しているので、日雇いで普請を命令することを家康様は仰せ出されました。なかには御普請を是非行いたいと望む大名(藤堂高虎)もいますが、かたく無用であるということが家康様の考えです。しかしながら、諸国の大名たちは、泉頭で石場を占拠し(場所取りをしている)、石の上場まで取っている様子です。このようですので、石など割り作業する者がいたら、我先にとみなが石を用意しています。このような状況になったならば、諸国の大名に仰せが出るかもしれないとみな言っております。
書状2(正月四日)
一、三嶋にご隠居所ができます。御普請は日雇いで仰せ付けることが今のところ決まっております。どのようになっていくでしょうか。内々に普請の用意を行っておくようにとそちらの者たちにも申し付けておくようにしないさい。
書状3(正月十六日)
一、三嶋の御普請は早々に仰せがないことが決まり、本上州(側近の本多正純52歳)がそのことを申してきました。このようなことについても不審なことが多いものです。それでも何ともわからないことはいつもの事です。よくわかっているので、申すまでにも及びません。
(※政権の中枢ではいろんなことが起きているがいつものことだ)
↓
A 隠居所の普請の方法は日雇いで行われることになっている。
B 諸大名の対応はどのようであったか。
C 隠居所の普請は中止になった。
2 細川家の情報把握
情報源=以心崇伝 →細川忠興
書状Ⅰ 元和元年(1615)十二月四日
・家康が四日に江戸を出発し、駿府へ還御する。十四、五日ごろ到着。
・崇伝は明日、お暇し、六日出発予定。
・家康の隠居所が伊豆に決まった。
・家康が来年四月には上洛し、家光も上洛・参内される。
・諸大名が越年のため参上(駿府へ)すること、ほか大名衆の動向。
書状Ⅱ 元和元年十二月十五日
・家康が十三日に三嶋に到着。
・十四日、隠居所を三嶋に決めるにあたり、来年の方角の善悪をこたえた。
・家康が十八日には駿府に戻ってくる。
・忠興の駿府・江戸への参上を家康が聞き、ご機嫌であった。
・忠興の宿(駿府)を準備し待っている。
書状Ⅲ 元和元年十二月十七日
・家康が十六日申刻に還御した。
・三島に隠居所が決定した。
書状Ⅳ 元和元年十二月十八日
・遅くとも二十二、三日頃の駿府到着と江戸での越年をすすめる。
・諸大名とくに隣国衆の進物の様子ほか。
書状Ⅴ 元和二年正月八日
・泉頭の御普請が日用で命ぜられることが決まったこと。
・駿府を十五日か十七日出発し、十九日に縄張を行う日程が決定。
・藤堂高虎の意見(日雇いでは石垣はできない)
・泉頭の近所の山々で諸大名が石場を取っている。
・崇伝も泉頭へ御供の予定で、現地から連絡する。
書状Ⅵ 元和二年正月十二日
・十一日、泉頭の出発は延期となった。
・泉頭の隠居所は、とりやめになると思われる。
・昨夜の夜詰での家康の仰せ(竹腰邸を泉が湧くか掘らせよ)
・隠居所は竹腰氏の屋敷に定まるのではないか。
書状Ⅶ 元和二年正月二十五日
・家康の体調について
3 情報の本質を見る
・情報の差
・情報の精度
・情報の位置づけ
information(ただの情報)
intelligence(情報の状態、解釈、評価、格付けをして伝える)
以心崇伝
→板倉勝重 決定事項のみを報告
→細川忠興 未定の情報も伝える
※隠居所に関して石や人足の準備をする必要が出てくるかもしれない。
※崇伝の情報を見極めて息子に伝えている。
※判断の一つとして崇伝の情報を使う。
受け取る側の欲しい情報
細川家が欲しい情報(家康の隠居所)
全国の大名が注目していた。