2015年11月04日
第1回 清水町・泉頭 歴史文化フォーラム~徳川家康が憧れた隠居の地「泉頭」~
昨晩は、第1回 清水町・泉頭 歴史文化フォーラム~徳川家康が憧れた隠居の地「泉頭」~が、
地域交流センターで開催され参加。

会場は、多くの聴講者で埋まっていた。
300人くらいはいたんじゃないかな。
第1部は基調講演「徳川家康の隠居と『泉頭』」と題して
東京大学史料編纂所研究支援推進員大嶌聖子氏のお話を聴く。
大嶌氏は、徳川家康の側近で元南禅寺僧侶の以心崇伝の「本光国師日記」の中から
京都所司代板倉勝重へ送った書状で泉頭に関する部分を10カ所ほど引用して紹介してくれた。
板倉勝重は、70歳で京都所司代として公家や西の大名との関係を持っており、
以心崇伝の重要な仕事関係にあった。
ちなみに家康は75歳、以心崇伝は47歳。
まず、手紙の紹介の前に当時の隠居について説明してくれた。
隠居と言っても今のように現役引退みたいなものではない。
当時の隠居は、実権を全部譲るのではなく、
家康も征夷大将軍を秀忠に譲ったあと、
少しずつ権限を委譲していた。
元和元年(1615年)12月17日の「書状1」で
「来年は伊豆三嶋へご隠居されるとのことですので、方角などのことをお尋ねがありましたから、詳しく申し上げました。来年、東は格別によい方角であるとありましたから、詳しく申し上げました。これについてもご機嫌よくおいででした。場所は泉頭と言うことです。三島のきわにあたるということです。」
とある。
家康は、この前に江戸から駿府へ行く途中に三島で泊り、泉頭へ寄ったという。
そして泉頭を隠居の地と定めた。
当時は、出かけるときなどは方角が重要で家康が以心崇伝に確認し、
駿府から東へ向かう形で泉頭へ隠居すると格別によいと答えたという。
「書状2」12月19日
一昨日の書状にも書きましたように、間違いなく伊豆泉頭へ隠居所に定まるということです。
「書状3」12月22日
伊豆泉頭は、間違いなく御隠居所に決まりました。来春早々から御普請を仰せ付けられるということです。御普請は、日用で仰せ付けるという家康の指示です。(家康の)御子様たち、尾州衆などは、内々に御普請の用意をしていると、こちらではうわさになっています。
日用とは、日雇いのことで、当時は、城の普請は大名がやるものであったが、家康は、自分が雇った日雇いで隠居所をつくろうとしていた。
「書状4」元和二年正月2日
伊豆御隠居の御普請は、日用で仰せ付けられるということです。
「書状5」正月4日
一、(中略)来月初頃に、伊豆御隠居のお屋敷の縄張りに出向かれるということです。(中略)
一、伊豆の御普請は間違いなく日用に仰せ付けられるということで、日用に大将などが当地へ出向こうという詮索の最中です。藤堂高虎は、相応の御普請を行いたいということを色々訴えているということです。いずれにしても、石垣などは、日用では出来上がらないということです。諸大名衆も、石場などを内々に下見されているということです。
藤堂高虎は当時59歳。築城の名手で宇和島城・今治城などを手掛ける。津藩初代藩主。
藤堂高虎は、隠居所の御普請を訴えていて、石垣は、日雇いではできないと言っている。
その他の諸大名も家臣たちを泉頭に派遣して、下見させている。
この手紙の中では出てこないが、大嶌氏の調査では、細川家の家臣も下見を行っていて、
多くの大名がそうした下見を行っていたと思わるとのことである。
「書状6」正月6日
昨日5日に、近所へ御鷹野に出かけられました。ご機嫌よく戻られ、私を奥へ呼ばれ、本多正純と出仕しました。泉頭の縄張りなどの日取りのことについてお尋ねがあり、すぐに考えを申し上げました。正月19日に御鍬初で、17日に出発し、泉頭へ御成りをするお考えでした。いまだ駿府では、右のことは誰も存じていません。心得としてお伝えしました。
本多正純は、当時50歳。家康側近の第一人者。
「書状7」正月8日
一、上様は15日か17日に当地(駿府)を出発され、豆州泉頭へ御成りをされ、19日に縄張と鍬初を指示されたということです。
「書状8」正月13日
伊豆泉頭御普請のことは、以前の書状に度々様子を書きました。ところが、昨日の御定では、泉頭は場所も良くないので、選ばないという仰せがあり、中止になりました。竹腰正信の屋敷を今日13日が吉日であるので、清水が出るか試掘させるように仰せ付けられました。おおよそ駿府に後々までもおられる様子に聞こえました。
泉頭は場所も良くないとのことで中止になった。
その代り、母が家康の側室のお亀の方にあたる、側近の竹腰正信の駿府の屋敷に清水が出るか試掘させた。
「書状9」正月14日
13日の手紙でお伝えしましたように、泉頭の御普請は中止になりました。当地(駿府)の竹腰正信の屋敷にお移りになれることが決まり、はやくも昨13日に屋敷の絵図が出来上がって中井正次が召し出されて、家屋の設計図など仰せ付けられました。
「書状10」正月21日
一昨日19日に竹腰正信の屋敷へ御成りをされ、縄張をされました崇伝自信も出向きました。
家康は、この月、鷹狩に出て倒れて、
4月17日に亡くなっている。
泉頭が隠居の地として中止となったのは、
江戸幕府の公式記録である徳川実紀によると地景が問題になったとある。
「本光国師日記」を読むと場所もよくないとあるが、
御普請には、日雇いの費用や材木、労働者の食事など財政上難しく、
費用を縮小して、隠居の地を駿府の竹腰正信の屋敷となった。
また、家康の家臣たちは泉頭へ隠居されることに反対だったようで普請が中止になってほっとしたと出ている。
それだけ、家康は実力者であり、政権の中心にいたといえる。
第2部でパネルディスカッション「歴史を未来に活かす」では、
コーディネーターに静岡産業大学総合研究所研究員 中村羊一郎氏
パネリストに静岡文化・観光部部長代理 後藤淳氏
(一財)企業経営研究所常務理事、清水町行政改革推進委員会委員長 中山勝氏
東京大学史料編纂所研究支援推進員 大嶌聖子氏
以上のメンバーで行う。
大嶌氏は、パネルディスカッションでは、泉頭の普請が中止になったのが財政的な面と言っていたが、
あたりさわりのない言い訳のようなものだったのではないかとコメントした。
今日のお話で泉頭が隠居の地に選ばれてボツになった経緯はだいたいわかったけど、
天下をとった家康は、泉頭のどこに惹かれたのだろう。
家康は、鷹狩りと薬づくりが趣味だった。
健康には人一倍気を使っただろうから、
泉頭の水に惹かれたのかもしれない。
富士山の水が湧き出る泉頭は、
まさに富士山のエネルギーそのものであり、
パワースポットだ。
何より家康は、富士山がよく見えるところに住みたかったのかもしれない。
それにしても家康がもし泉頭へ隠居して亡くなっていたら、
その後のこの地域の歴史も変わっていたかもしれない。
先週、担当課に確認したところ、
何らかの形でまた泉頭に関するイベントを行いたいとのことで
第1回としたという。
今後のシティプロモーションとして
清水町が徳川家康隠居の地に選定されていた史実を
前面に押し出したまちづくりを考えていければと思う。
地域交流センターで開催され参加。
会場は、多くの聴講者で埋まっていた。
300人くらいはいたんじゃないかな。
第1部は基調講演「徳川家康の隠居と『泉頭』」と題して
東京大学史料編纂所研究支援推進員大嶌聖子氏のお話を聴く。
大嶌氏は、徳川家康の側近で元南禅寺僧侶の以心崇伝の「本光国師日記」の中から
京都所司代板倉勝重へ送った書状で泉頭に関する部分を10カ所ほど引用して紹介してくれた。
板倉勝重は、70歳で京都所司代として公家や西の大名との関係を持っており、
以心崇伝の重要な仕事関係にあった。
ちなみに家康は75歳、以心崇伝は47歳。
まず、手紙の紹介の前に当時の隠居について説明してくれた。
隠居と言っても今のように現役引退みたいなものではない。
当時の隠居は、実権を全部譲るのではなく、
家康も征夷大将軍を秀忠に譲ったあと、
少しずつ権限を委譲していた。
元和元年(1615年)12月17日の「書状1」で
「来年は伊豆三嶋へご隠居されるとのことですので、方角などのことをお尋ねがありましたから、詳しく申し上げました。来年、東は格別によい方角であるとありましたから、詳しく申し上げました。これについてもご機嫌よくおいででした。場所は泉頭と言うことです。三島のきわにあたるということです。」
とある。
家康は、この前に江戸から駿府へ行く途中に三島で泊り、泉頭へ寄ったという。
そして泉頭を隠居の地と定めた。
当時は、出かけるときなどは方角が重要で家康が以心崇伝に確認し、
駿府から東へ向かう形で泉頭へ隠居すると格別によいと答えたという。
「書状2」12月19日
一昨日の書状にも書きましたように、間違いなく伊豆泉頭へ隠居所に定まるということです。
「書状3」12月22日
伊豆泉頭は、間違いなく御隠居所に決まりました。来春早々から御普請を仰せ付けられるということです。御普請は、日用で仰せ付けるという家康の指示です。(家康の)御子様たち、尾州衆などは、内々に御普請の用意をしていると、こちらではうわさになっています。
日用とは、日雇いのことで、当時は、城の普請は大名がやるものであったが、家康は、自分が雇った日雇いで隠居所をつくろうとしていた。
「書状4」元和二年正月2日
伊豆御隠居の御普請は、日用で仰せ付けられるということです。
「書状5」正月4日
一、(中略)来月初頃に、伊豆御隠居のお屋敷の縄張りに出向かれるということです。(中略)
一、伊豆の御普請は間違いなく日用に仰せ付けられるということで、日用に大将などが当地へ出向こうという詮索の最中です。藤堂高虎は、相応の御普請を行いたいということを色々訴えているということです。いずれにしても、石垣などは、日用では出来上がらないということです。諸大名衆も、石場などを内々に下見されているということです。
藤堂高虎は当時59歳。築城の名手で宇和島城・今治城などを手掛ける。津藩初代藩主。
藤堂高虎は、隠居所の御普請を訴えていて、石垣は、日雇いではできないと言っている。
その他の諸大名も家臣たちを泉頭に派遣して、下見させている。
この手紙の中では出てこないが、大嶌氏の調査では、細川家の家臣も下見を行っていて、
多くの大名がそうした下見を行っていたと思わるとのことである。
「書状6」正月6日
昨日5日に、近所へ御鷹野に出かけられました。ご機嫌よく戻られ、私を奥へ呼ばれ、本多正純と出仕しました。泉頭の縄張りなどの日取りのことについてお尋ねがあり、すぐに考えを申し上げました。正月19日に御鍬初で、17日に出発し、泉頭へ御成りをするお考えでした。いまだ駿府では、右のことは誰も存じていません。心得としてお伝えしました。
本多正純は、当時50歳。家康側近の第一人者。
「書状7」正月8日
一、上様は15日か17日に当地(駿府)を出発され、豆州泉頭へ御成りをされ、19日に縄張と鍬初を指示されたということです。
「書状8」正月13日
伊豆泉頭御普請のことは、以前の書状に度々様子を書きました。ところが、昨日の御定では、泉頭は場所も良くないので、選ばないという仰せがあり、中止になりました。竹腰正信の屋敷を今日13日が吉日であるので、清水が出るか試掘させるように仰せ付けられました。おおよそ駿府に後々までもおられる様子に聞こえました。
泉頭は場所も良くないとのことで中止になった。
その代り、母が家康の側室のお亀の方にあたる、側近の竹腰正信の駿府の屋敷に清水が出るか試掘させた。
「書状9」正月14日
13日の手紙でお伝えしましたように、泉頭の御普請は中止になりました。当地(駿府)の竹腰正信の屋敷にお移りになれることが決まり、はやくも昨13日に屋敷の絵図が出来上がって中井正次が召し出されて、家屋の設計図など仰せ付けられました。
「書状10」正月21日
一昨日19日に竹腰正信の屋敷へ御成りをされ、縄張をされました崇伝自信も出向きました。
家康は、この月、鷹狩に出て倒れて、
4月17日に亡くなっている。
泉頭が隠居の地として中止となったのは、
江戸幕府の公式記録である徳川実紀によると地景が問題になったとある。
「本光国師日記」を読むと場所もよくないとあるが、
御普請には、日雇いの費用や材木、労働者の食事など財政上難しく、
費用を縮小して、隠居の地を駿府の竹腰正信の屋敷となった。
また、家康の家臣たちは泉頭へ隠居されることに反対だったようで普請が中止になってほっとしたと出ている。
それだけ、家康は実力者であり、政権の中心にいたといえる。
第2部でパネルディスカッション「歴史を未来に活かす」では、
コーディネーターに静岡産業大学総合研究所研究員 中村羊一郎氏
パネリストに静岡文化・観光部部長代理 後藤淳氏
(一財)企業経営研究所常務理事、清水町行政改革推進委員会委員長 中山勝氏
東京大学史料編纂所研究支援推進員 大嶌聖子氏
以上のメンバーで行う。
大嶌氏は、パネルディスカッションでは、泉頭の普請が中止になったのが財政的な面と言っていたが、
あたりさわりのない言い訳のようなものだったのではないかとコメントした。
今日のお話で泉頭が隠居の地に選ばれてボツになった経緯はだいたいわかったけど、
天下をとった家康は、泉頭のどこに惹かれたのだろう。
家康は、鷹狩りと薬づくりが趣味だった。
健康には人一倍気を使っただろうから、
泉頭の水に惹かれたのかもしれない。
富士山の水が湧き出る泉頭は、
まさに富士山のエネルギーそのものであり、
パワースポットだ。
何より家康は、富士山がよく見えるところに住みたかったのかもしれない。
それにしても家康がもし泉頭へ隠居して亡くなっていたら、
その後のこの地域の歴史も変わっていたかもしれない。
先週、担当課に確認したところ、
何らかの形でまた泉頭に関するイベントを行いたいとのことで
第1回としたという。
今後のシティプロモーションとして
清水町が徳川家康隠居の地に選定されていた史実を
前面に押し出したまちづくりを考えていければと思う。
Posted by 清水町議会議員 松浦俊介 at 01:15
│郷土史