2017年03月31日
<清水町歴史講座>第1回「長沢区中台遺跡から見る今川家の清水町」
29日に清水町歴史講座が地域交流センターで開催され、
第1回「長沢区中台遺跡から見る今川家の清水町」と題して、
株式会社 珠流河国文化財調査研究所代表取締役の
小金澤保雄氏(日本考古学協会会員)の講演を聴く。

小金澤氏は、2014年と2017年に中台遺跡の調査を行う。
ここには、戦国時代の屋敷跡があり、
甘利氏の屋敷(甘利屋敷)があった。
今川時代の家臣の館で戦にも備えた屋敷であった。
大河ドラマの井伊家が今川家の西の端なら
今川家の東の端が清水町である。
今川にとっての緩衝地帯で
100%支配が完結しているわけではなかった。
中台遺跡は、長沢区にあるが
西に黄瀬川、南に狩野川、東に柿田川、北に雨降川があり
四方を川に囲まれている。
また、屋敷のあった遺跡の周囲は
北側と南側にそれぞれ大きな堀があり、
西側が黄瀬川となっていて守りやすくなっている。
「ウエノヤシキ」と呼ばれ、
中台遺跡の発掘調査で1m50㎝掘ってみたら、
戦国時代の瓦家という土器が出てきた。
昔の記録を調べてみると今川家から甘利家へ3つの文書が残っている。
①1552年 今川義元が甘利弾正に出した文書がある。
この辺りは泉郷と呼ばれ、
前から、あなたのために年貢を定めてあると書いてある。
※1560年 今川義元が桶狭間で討ち死に
②1562年 今川氏真から甘利弾正に出した文書には、
地名が泉郷から長沢となっており、
柳坪、中坪、下中坪と明記され
屋敷が柿田原にあったと書かれていた。
今でも1562年ころの地名が残っている。
中台遺跡の西側の黄瀬川には、
筏久保と言う船着き場があった。
③1569年4月2日 今川氏真から甘利源三に出した文書には、
甘利氏が柿田村の由比氏の(河内守)知行分を頂くとある。
代官をやることになる。
前年に氏真はすでに駿府城を捨てて掛川城へ移っており、
5月17日には、掛川城が開城となり、今川家が滅亡し、
今川氏真は、掛川から海路で清水町の徳倉、沼津市大平、函南町日守へ落ち延びる。
上記の資料から今川家の勢力拡大に伴い文書①が発給され、
弱体化して行く過程文書②が発給され、
滅亡寸前に文章③が発給されていることが理解される。
今川家の滅亡に伴って清水町内では北条家文書発給が急速に増加、
それに伴って新たな土豪勢力が台頭していくことが文書受け取り名で判明、
以後、徳川家康時代へいくことが理解される。
1502年には、樋ノ口(千貫樋)があり、
甘利氏は、一時期、樋ノ口の管理をしていたと思われる。
第1回「長沢区中台遺跡から見る今川家の清水町」と題して、
株式会社 珠流河国文化財調査研究所代表取締役の
小金澤保雄氏(日本考古学協会会員)の講演を聴く。
小金澤氏は、2014年と2017年に中台遺跡の調査を行う。
ここには、戦国時代の屋敷跡があり、
甘利氏の屋敷(甘利屋敷)があった。
今川時代の家臣の館で戦にも備えた屋敷であった。
大河ドラマの井伊家が今川家の西の端なら
今川家の東の端が清水町である。
今川にとっての緩衝地帯で
100%支配が完結しているわけではなかった。
中台遺跡は、長沢区にあるが
西に黄瀬川、南に狩野川、東に柿田川、北に雨降川があり
四方を川に囲まれている。
また、屋敷のあった遺跡の周囲は
北側と南側にそれぞれ大きな堀があり、
西側が黄瀬川となっていて守りやすくなっている。
「ウエノヤシキ」と呼ばれ、
中台遺跡の発掘調査で1m50㎝掘ってみたら、
戦国時代の瓦家という土器が出てきた。
昔の記録を調べてみると今川家から甘利家へ3つの文書が残っている。
①1552年 今川義元が甘利弾正に出した文書がある。
この辺りは泉郷と呼ばれ、
前から、あなたのために年貢を定めてあると書いてある。
※1560年 今川義元が桶狭間で討ち死に
②1562年 今川氏真から甘利弾正に出した文書には、
地名が泉郷から長沢となっており、
柳坪、中坪、下中坪と明記され
屋敷が柿田原にあったと書かれていた。
今でも1562年ころの地名が残っている。
中台遺跡の西側の黄瀬川には、
筏久保と言う船着き場があった。
③1569年4月2日 今川氏真から甘利源三に出した文書には、
甘利氏が柿田村の由比氏の(河内守)知行分を頂くとある。
代官をやることになる。
前年に氏真はすでに駿府城を捨てて掛川城へ移っており、
5月17日には、掛川城が開城となり、今川家が滅亡し、
今川氏真は、掛川から海路で清水町の徳倉、沼津市大平、函南町日守へ落ち延びる。
上記の資料から今川家の勢力拡大に伴い文書①が発給され、
弱体化して行く過程文書②が発給され、
滅亡寸前に文章③が発給されていることが理解される。
今川家の滅亡に伴って清水町内では北条家文書発給が急速に増加、
それに伴って新たな土豪勢力が台頭していくことが文書受け取り名で判明、
以後、徳川家康時代へいくことが理解される。
1502年には、樋ノ口(千貫樋)があり、
甘利氏は、一時期、樋ノ口の管理をしていたと思われる。
Posted by 清水町議会議員 松浦俊介 at 16:41
│郷土史