2012年02月06日
<平井彌一郎氏>旭日双光章受章をお祝いする会
昨日、前町長の平井彌一郎氏の旭日双光章受章をお祝いする会が
ホテルエルムリージェンシーで開催された。
会の発起人代表が山本町長、
ほか、発起人が
町議会議長 岩崎高雄
町商工会会長 亀谷健
東海金属工業株式会社代表取締役会長 関本文彦
公益財団法人佐野美術館理事長 峰田武
町体育協会会長 秋元稔
親戚代表 名倉勉
以上の各氏。
会場には、130人ほどの町内各界の代表者や有識者、
平井さんの友人の方々が参加された。
平井さんは、今は病気を患い
車椅子での登場となった。
話もうまくできないので
ご挨拶も息子さんがされた。
その中で、町長の任期中、
多くの理不尽な思いをしてきたけど
家族で支え合ってきた話をされた。
平井さんは、平成7年3月から3期12年町長を務めた。
私も1期目の4年間議員として
議会ではかなり戦闘的な質問をした。
でも平井さんの最後の平成18年12月の議会一般質問では、
またちょっと違う質問をさせてもらった。
それを下記に掲載しておく。
******************
私が議員になりまして4年になろうとしています。公正、そして透明性のある清水町を自分の信条といたしまして、当選以来、今回を含め16回の一般質問をしてきました。職員採用に関しては非常に不公正、不公平さを感じ、議案の質疑も含めまして、本会議で町長に厳しく追及してまいりました。
1年目の3月議会で町長の不信任案が出された際には、町長の沼津市との問題についての政治手法、不透明さに、町長には重大な責任があると感じ、自分も賛成いたしました。が、しかしながら、私が追及してきました不公正さに感じた部分も改善されてきたこと、また、沼津市との問題に関しては、私も議員活動を続けているうちに、確かに不誠実と思われて仕方のない状況など多々ありましたが、過去の経緯や地理的な側面を考えると町長だけを悪者のように扱うことには無理があり、そうした批判には懐疑的に見るようになりました。
清水町は、この12年の間に、40年前のコンビナート計画や沼津市との合併問題以来の重要な局面を迎えたように思います。そして、町長は、ある意味、40年分の責任を背負ってこの難局を乗り越えようとしたんだと思います。そうした中、私ではとても耐えがたいような肉体的、精神的苦痛や理不尽な思いをしながら、3万1,000町民の将来のために、そうした問題に取り組んできたのだと思います。
近い将来、現在この清水町が抱えている問題について解決される日が来ると思います。そして、中核市や政令市に向けて合併するときが来るかもしれません。そうしたとき、この平井町長の12年間をどう評価されるのか、私は大変楽しみに感じています。
町長が築き上げてきた実績の中に、清水町史を完成させたことがあります。こちらにございますが、町史の年表を見ますと2000年までで終わっています。私がこの先どれぐらい町議会議員ができるかわかりませんが、合併前にぜひこの先の続編をつくるよう提案して、平井町長もこれまでの苦労を事実に基づいて書いていただき、後世の町民の皆様に正確に評価される日が来ればと思います。
もう平井町長に一般質問できないことに、正直、寂しさを感じます。町長、きょう私は、亡くなられた高木綱志議員のネクタイをして質問をさせてもらいました。まだ残り3カ月あり、ちょっと早いですけど、高木さんの分も含めてお礼のあいさつをさせてもらいます。平井町長、12年間お疲れさまでした。
以上をもちまして私の質問を終わります。
***************
以上、そのとき質問したように
平井さんの功績の中で町史編纂事業を
完成させたことをあげたい。
私も町史でいろんなことを学び
議会や議会だよりで取り上げきた。
町の自然や歴史の縦軸をまとめあげて
後世に伝えることができた。
先人達の苦労を知らずして、
今の清水町の豊かさを語ることはできない。
そして、平井さんの業績にサントムーン周辺の整備がある。
運動公園東側の道路の整備や
シネコン建設のための条例の制定、
民設公営の子育て総合支援センターの設置などがあり、
現在、サントムーン周辺が
県東部の中心的商業施設群に成長した。
平井さんは、体調不良であるが
これからも健康に気をつけて療養してもらいたい。
今回の受章を心からお祝い申し上げます。
ホテルエルムリージェンシーで開催された。
会の発起人代表が山本町長、
ほか、発起人が
町議会議長 岩崎高雄
町商工会会長 亀谷健
東海金属工業株式会社代表取締役会長 関本文彦
公益財団法人佐野美術館理事長 峰田武
町体育協会会長 秋元稔
親戚代表 名倉勉
以上の各氏。
会場には、130人ほどの町内各界の代表者や有識者、
平井さんの友人の方々が参加された。
平井さんは、今は病気を患い
車椅子での登場となった。
話もうまくできないので
ご挨拶も息子さんがされた。
その中で、町長の任期中、
多くの理不尽な思いをしてきたけど
家族で支え合ってきた話をされた。
平井さんは、平成7年3月から3期12年町長を務めた。
私も1期目の4年間議員として
議会ではかなり戦闘的な質問をした。
でも平井さんの最後の平成18年12月の議会一般質問では、
またちょっと違う質問をさせてもらった。
それを下記に掲載しておく。
******************
私が議員になりまして4年になろうとしています。公正、そして透明性のある清水町を自分の信条といたしまして、当選以来、今回を含め16回の一般質問をしてきました。職員採用に関しては非常に不公正、不公平さを感じ、議案の質疑も含めまして、本会議で町長に厳しく追及してまいりました。
1年目の3月議会で町長の不信任案が出された際には、町長の沼津市との問題についての政治手法、不透明さに、町長には重大な責任があると感じ、自分も賛成いたしました。が、しかしながら、私が追及してきました不公正さに感じた部分も改善されてきたこと、また、沼津市との問題に関しては、私も議員活動を続けているうちに、確かに不誠実と思われて仕方のない状況など多々ありましたが、過去の経緯や地理的な側面を考えると町長だけを悪者のように扱うことには無理があり、そうした批判には懐疑的に見るようになりました。
清水町は、この12年の間に、40年前のコンビナート計画や沼津市との合併問題以来の重要な局面を迎えたように思います。そして、町長は、ある意味、40年分の責任を背負ってこの難局を乗り越えようとしたんだと思います。そうした中、私ではとても耐えがたいような肉体的、精神的苦痛や理不尽な思いをしながら、3万1,000町民の将来のために、そうした問題に取り組んできたのだと思います。
近い将来、現在この清水町が抱えている問題について解決される日が来ると思います。そして、中核市や政令市に向けて合併するときが来るかもしれません。そうしたとき、この平井町長の12年間をどう評価されるのか、私は大変楽しみに感じています。
町長が築き上げてきた実績の中に、清水町史を完成させたことがあります。こちらにございますが、町史の年表を見ますと2000年までで終わっています。私がこの先どれぐらい町議会議員ができるかわかりませんが、合併前にぜひこの先の続編をつくるよう提案して、平井町長もこれまでの苦労を事実に基づいて書いていただき、後世の町民の皆様に正確に評価される日が来ればと思います。
もう平井町長に一般質問できないことに、正直、寂しさを感じます。町長、きょう私は、亡くなられた高木綱志議員のネクタイをして質問をさせてもらいました。まだ残り3カ月あり、ちょっと早いですけど、高木さんの分も含めてお礼のあいさつをさせてもらいます。平井町長、12年間お疲れさまでした。
以上をもちまして私の質問を終わります。
***************
以上、そのとき質問したように
平井さんの功績の中で町史編纂事業を
完成させたことをあげたい。
私も町史でいろんなことを学び
議会や議会だよりで取り上げきた。
町の自然や歴史の縦軸をまとめあげて
後世に伝えることができた。
先人達の苦労を知らずして、
今の清水町の豊かさを語ることはできない。
そして、平井さんの業績にサントムーン周辺の整備がある。
運動公園東側の道路の整備や
シネコン建設のための条例の制定、
民設公営の子育て総合支援センターの設置などがあり、
現在、サントムーン周辺が
県東部の中心的商業施設群に成長した。
平井さんは、体調不良であるが
これからも健康に気をつけて療養してもらいたい。
今回の受章を心からお祝い申し上げます。
Posted by 清水町議会議員 松浦俊介 at 20:02
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