2013年08月06日
<会津若松市>西郷頼母と山川兄弟
先週、宮城県へ行った帰りに福島県会津地方を旅した。
会津は、1年半前の震災翌年の2月に訪問した。
豪雪の会津で雪かきボランティアをしてきたが、
観光面など震災の影響がまだ残っていた。
大河ドラマで「八重の桜」が放送されているが、
その後の会津を見たくて、
また、会津藩家老西郷頼母(たのも)のお墓がある善龍寺を訪問したくて行ってきた。

西郷頼母は、会津戦争で新政府軍への恭順を勧めたが、
他の藩士と意見の折り合わず、長子・吉十郎のみを伴い城から脱出し、
函館で榎本武明らと新政府軍と戦う。
その後、伊豆松崎で私塾の塾長、
日光東照宮の禰宜などを務めるが
亡くなる4年前の明治36年(1903年)に会津若松に戻り、
十軒長屋で貧しい生活を送り74歳で死去。
長男吉十郎有鄰は当時11歳で父・頼母に連れられ、
籠城中の若松城を脱出し、仙台から函館へ向かい、
函館で父が五稜郭に入城の時に坂本龍馬の従兄弟で函館ギリシャ正教神父・沢辺琢磨に託された。
その後、病のため東大医学部病院で死去。
母、妹2人、妻、5人の娘は、慶応4年8月23日(1868年10月8日)、頼母の登城後に自邸で自刃し親戚12人と共に自害した。
会津若松市の中心部から南東にある善龍寺には
西郷頼母・千恵子の墓と
西郷邸で自刃した一族「二十一人之墓」がある。
写真の善龍寺の山門は、当時からのままである。
善龍寺に行く前に八重の桜ドラマ館へ行ってみた。
平日だったが、観光客が途切れることなく入っていた。
入場料は600円でドラマのキャストの紹介、
衣装やセットの裏話などが紹介されていた。
その後、隣にある福島県立博物館へ行った。
こちらには、テーマ展で
「資料でたどる山川浩と健次郎」という展示会が行われていた。
http://www.general-museum.fks.ed.jp/01_exhibit/teima_tenji/2013/130720_yamakawa/130720_yamakawa.html
山川浩(大蔵)や弟の健次郎、妹の捨松ら一族の紹介がされていた。
山川浩は、会津藩家老で
会津戦争では日光口で新政府軍の谷干城と戦いこれを食い止める。
その後、谷干城の推薦により、明治4年(1871年)に陸軍に出仕し、
西南戦争では、陸軍中佐・征討軍団参謀として出征する。
明治31年(1898年)1月26日、軍務等の功により男爵に叙せられる。
同年2月4日、病没
山川健次郎は、白虎隊に入隊していたが、
開城後、猪苗代に謹慎の後、越後に脱走、長州藩士奥平謙輔の書生となる。
明治4年、斗南藩再興のあと、アメリカへの国費留学生に選抜され渡米。
明治8年、イェール大学で物理学の学位を取得し帰国。
明治12年、日本人として初の物理学教授。
明治34年、48歳で東京帝国大学総長となる。
明治44年、九州帝国大学の初代総長となる。
1913年(大正2年) 再び東京帝国大学の総長となる。12月、男爵を授爵。
その妹、捨松は、会津戦争時、数え8歳。
家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しを行う。
女たちは、城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、
これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていたが、
捨松もこれも手伝って大怪我をしている。
すぐそばでは兄の大蔵の妻が重傷を負って落命した。
このとき城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長は、
西郷隆盛の従弟にあたる薩摩の大山弥助(のちの大山巌)。
その後、兄健次郎とともに岩倉使節団で渡米。
アメリカの大学を卒業後、
帰国後、官軍の砲兵隊長だった大山巌と恋愛結婚をする。
大山巌・捨松夫妻はおしどり夫婦だったという。
山川浩は、命を懸けて戦った相手の推薦で陸軍軍人となり西南戦争を戦い、
その妹は、身内を殺した相手と恋愛結婚をする。
健次郎は、敵である長州藩士奥平謙輔の書生から東大総長にまで出世する。
県立博物館の入館料は260円と安かったが、
八重の桜ドラマ館と比べて、
人はあまりいなかった。
でも、内容的にはこちらの方が圧倒的に見ごたえがあった。
期間限定だし、見ることができてよかった。

戊辰戦争で筆舌に尽くしがたい辛酸を嘗める会津藩士とその家族。
でもその勇気と誇りある人生は、時代を超えて今を生きる私たちに強烈なメッセージを伝えてくれる。
会津は、「八重の桜」効果もあってか、
観光客が例年より1・5倍は増えているという。
福島、そして東北は必ず復活する。
それは明治維新後の苦難を乗り越えた歴史が証明している。
これからも東北へ行く。
写真は、善龍寺山門から鶴ヶ城方面を望む。
会津は、1年半前の震災翌年の2月に訪問した。
豪雪の会津で雪かきボランティアをしてきたが、
観光面など震災の影響がまだ残っていた。
大河ドラマで「八重の桜」が放送されているが、
その後の会津を見たくて、
また、会津藩家老西郷頼母(たのも)のお墓がある善龍寺を訪問したくて行ってきた。
西郷頼母は、会津戦争で新政府軍への恭順を勧めたが、
他の藩士と意見の折り合わず、長子・吉十郎のみを伴い城から脱出し、
函館で榎本武明らと新政府軍と戦う。
その後、伊豆松崎で私塾の塾長、
日光東照宮の禰宜などを務めるが
亡くなる4年前の明治36年(1903年)に会津若松に戻り、
十軒長屋で貧しい生活を送り74歳で死去。
長男吉十郎有鄰は当時11歳で父・頼母に連れられ、
籠城中の若松城を脱出し、仙台から函館へ向かい、
函館で父が五稜郭に入城の時に坂本龍馬の従兄弟で函館ギリシャ正教神父・沢辺琢磨に託された。
その後、病のため東大医学部病院で死去。
母、妹2人、妻、5人の娘は、慶応4年8月23日(1868年10月8日)、頼母の登城後に自邸で自刃し親戚12人と共に自害した。
会津若松市の中心部から南東にある善龍寺には
西郷頼母・千恵子の墓と
西郷邸で自刃した一族「二十一人之墓」がある。
写真の善龍寺の山門は、当時からのままである。
善龍寺に行く前に八重の桜ドラマ館へ行ってみた。
平日だったが、観光客が途切れることなく入っていた。
入場料は600円でドラマのキャストの紹介、
衣装やセットの裏話などが紹介されていた。
その後、隣にある福島県立博物館へ行った。
こちらには、テーマ展で
「資料でたどる山川浩と健次郎」という展示会が行われていた。
http://www.general-museum.fks.ed.jp/01_exhibit/teima_tenji/2013/130720_yamakawa/130720_yamakawa.html
山川浩(大蔵)や弟の健次郎、妹の捨松ら一族の紹介がされていた。
山川浩は、会津藩家老で
会津戦争では日光口で新政府軍の谷干城と戦いこれを食い止める。
その後、谷干城の推薦により、明治4年(1871年)に陸軍に出仕し、
西南戦争では、陸軍中佐・征討軍団参謀として出征する。
明治31年(1898年)1月26日、軍務等の功により男爵に叙せられる。
同年2月4日、病没
山川健次郎は、白虎隊に入隊していたが、
開城後、猪苗代に謹慎の後、越後に脱走、長州藩士奥平謙輔の書生となる。
明治4年、斗南藩再興のあと、アメリカへの国費留学生に選抜され渡米。
明治8年、イェール大学で物理学の学位を取得し帰国。
明治12年、日本人として初の物理学教授。
明治34年、48歳で東京帝国大学総長となる。
明治44年、九州帝国大学の初代総長となる。
1913年(大正2年) 再び東京帝国大学の総長となる。12月、男爵を授爵。
その妹、捨松は、会津戦争時、数え8歳。
家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しを行う。
女たちは、城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、
これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていたが、
捨松もこれも手伝って大怪我をしている。
すぐそばでは兄の大蔵の妻が重傷を負って落命した。
このとき城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長は、
西郷隆盛の従弟にあたる薩摩の大山弥助(のちの大山巌)。
その後、兄健次郎とともに岩倉使節団で渡米。
アメリカの大学を卒業後、
帰国後、官軍の砲兵隊長だった大山巌と恋愛結婚をする。
大山巌・捨松夫妻はおしどり夫婦だったという。
山川浩は、命を懸けて戦った相手の推薦で陸軍軍人となり西南戦争を戦い、
その妹は、身内を殺した相手と恋愛結婚をする。
健次郎は、敵である長州藩士奥平謙輔の書生から東大総長にまで出世する。
県立博物館の入館料は260円と安かったが、
八重の桜ドラマ館と比べて、
人はあまりいなかった。
でも、内容的にはこちらの方が圧倒的に見ごたえがあった。
期間限定だし、見ることができてよかった。
戊辰戦争で筆舌に尽くしがたい辛酸を嘗める会津藩士とその家族。
でもその勇気と誇りある人生は、時代を超えて今を生きる私たちに強烈なメッセージを伝えてくれる。
会津は、「八重の桜」効果もあってか、
観光客が例年より1・5倍は増えているという。
福島、そして東北は必ず復活する。
それは明治維新後の苦難を乗り越えた歴史が証明している。
これからも東北へ行く。
写真は、善龍寺山門から鶴ヶ城方面を望む。
Posted by 清水町議会議員 松浦俊介 at 11:00
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