<一般質問>町制施行50周年でノーマン・ミネタ氏の記念講演を
下記、一般質問原稿掲載
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続いて表題2の「町制施行50周年でノーマン・ミネタ氏の記念講演を」について質問します。
昨年の第3回定例会の一般質問で森野議員もノーマン・ミネタ氏について、名誉町民をということで取り上げていましたが、私は、来年の町制50周年の記念式典に来賓として招待をし、是非、記念講演をしていただいてはどうかと提案いたします。
ノーマン・ヨシオ・ミネタ氏の略歴は、1931年11月2日(80歳)。
明治35年に14歳で渡米した当時の清水村くまいでん出身の父・国作と三島町出身の母・かね(旧姓:渡邊)のもと、カリフォルニア州サンノゼで2男3女の末っ子として生まれる。
1953年、カリフォルニア大学バークレー校ビジネススクール学士課程を卒業。この年米陸軍に入り、日本や韓国で情報将校を務める。その後、父親の経営するミネタ保険会社に勤め、1967年サンノゼ市会議員に当選した。
1971年にはハワイを除く米本土では日系人として初めて、大都市サンノゼ市長に当選。1974年にはやはり米本土では初めて米国下院議員に当選した。1995年まで20年以上にわたって下院議員を務め、その間大部分は運輸委員会に所属した。
その後、ロッキード・マーティン社副社長を経て、2000年から2001年までビル・クリントン政権で商務長官。2001年から2006年まで共和党のジョージ・W・ブッシュ政権でも運輸長官を務めた。2001年9月11日に発生した米国同時多発テロ事件では、米国史上初めて全民間航空機の緊急着陸を命令した。
2001年11月、ミネタの地元のサンノゼ国際空港は、ミネタの長年の功績を顕彰して、同空港の正式名を「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」と改称した。
森野議員が去年の一般質問で紹介していましたが、昨年8月にNHKで放送された 渡辺謙 アメリカを行く「“9.11テロ”に立ち向かった日系人」を私も見ました。
その番組や彼に関する新聞記事などの情報を調べますと、ミネタ氏の功績がわかります。
大東亜戦争でルーズベルト大統領の命令により、日系人12万人が全米20箇所の強制収容所に入れられ、ミネタ氏はワイオミング州ハートマウンテン日系人強制収容所に隔離された。
収容所は砂嵐の舞う過酷な場所ばかりで、ハートマウンテンでは1万人が連行された。
24時間銃を構えた兵士に監視され、鉄条網にはりめぐらされ、板切れ一枚のすきま風が吹き抜けるバラック住宅に住まわされた。冬は、零下30度となり、皆ダルマストーブを囲むようにじっと耐えていた。
外部の情報なしの隔離された生活、共同食堂で食事をし、家族の団欒の時間がなく、家族の結束が崩壊した。
そうした11~13歳のときの経験から政治家として目指したものは、どんなときも自由と平等が守られる差別のない国にすると語る。
その後の下院議員としての活動の中で日系アメリカ人補償法の成立に力を注ぎ、88年にレーガン大統領が法案に署名をし、自由と権利を侵害したことを謝罪、生存者一人ひとりに2万ドルの損害賠償も実現した。
その後、クリントンン政権で商務長官、そして民主党員でありながら共和党ブッシュ政権で運輸長官を務め、2001年9月11日を迎える。
その時間、ミネタ氏はベルギーの副首相と朝食ミーティングしていて、すぐにホワイトハウスに向かった。
そのときアメリカ国内を飛んでいた4,638機の飛行機を2時間20分ですべて強制的に着陸させた。
アメリカに飛んでくる飛行機の受け入れを拒否し、ヨーロッパやアジアから飛んでくる飛行機をカナダに受け入れてもらい、カナダのある人口5,000人の町の飛行場の滑走路に夕方5時までに53機の飛行機が隙間無くびっしりと並び、その町の人口が15,000人まで増えた。
その後、アラブ系やイスラム教徒という理由で飛行機からおろしたという事例が起きるようになり、ミネタ氏は運輸省から航空会社へ
航空会社が人種や肌の色、
国籍、民族、宗教、乗客の名前、衣服の特徴
をもとに特定の乗客を標的にしたり、差別しないよう警告する。
さまざまな我が国の法令が、
人種、肌の色、国籍、宗教、性別、祖先をもとに航空会社が航空輸送の際に、差別することを禁じている。
と、通達を出す。
人種を基準にして選別や調査を行う人種プロファイリングを、多くの政治家やジャーナリストが主張し、全米で多くの支持を得ていたなか、ミネタ氏は、それに一貫してそれに反対する。
ミネタ氏は
<本人 記者会見>
「アラブ系イスラム系アメリカ人は、全ての国民と同じだけの尊厳と敬意をもって接せられます。
外見や肌の色で判断されることについて、私は実体験として知っています。
日本人が祖先である私の歴史は、両親の精神力と強い志、そして日系アメリカ人が直面した不当な扱いの数々から成り立っています。」
<本人>
「人種プロファイリングが安全の基礎になるものではない。
私自身の個人的な経験から明らか」
という
ミネタ氏の主張より人種プロフェイリングは回避された。
人種プロフェイリングを否定したミネタ氏は、マスコミや政治家から批判が集中した。
ミネタ氏はNHKの番組の渡辺謙さんからのインタビューで、
<本人>
「これは正しいことなのです。
憲法にのっとっているのです。
直面している問題を明確にすること。
感情的にならず判断すること。
強固な基盤を築くこと。
こうすれば様々な方向からの圧力に耐えられる。
レンガを積み上げる。
そうすれば、
どんな風が吹いても立ち続けていられる」
と語る。
「人種プロフェイリングをしてなくても空の安全を守れる」
と、運輸省の中に運輸保安局TSAを発足し、それまで空港の安全検査を、航空会社が安く契約していた警備会社が、統一された安全基準もなく行なっていたものを、国として行うようにした。
ミネタ氏は、2006年に運輸長官を引退。
日系人というアメリカ社会のマイノリティで、差別を受け、屈辱に耐え、そして異議を唱えてきた。
「努力を怠らず正しいことをする。
それが日系人の精神文化」だそうです。
ノーマン・ミネタ氏は、私が議員になってからも何度か清水町に来ていただいています。
今年も3月に清水町を表敬訪問してくれました。
年齢も年齢ですし、もう何度も来てくれることは難しいと思われます。来年、50周年という節目に是非とも来日していただき、記念講演をお願いできればと思いますが、町の考えを伺います。
【答弁】総務課長
来年度、平成25年度は、町制施行50周年の節目の年に当たることから、記念式典や各種記念事業の実施などにより、町民と一体となって祝賀の機運の醸成を図るとともに、町の情報を効果的に発信していく必要があります。
こうした各種記念事業の実施に当たりましては、例年実施している事業の名称に50周年の冠付けを行う、いわゆる既存事業をグレードアップした内容の記念事業のほか、多くの町民等の参加によるにぎわいの創出や多くの感動を与えることができる有意義な新規の記念事業を企画していくことも重要であり、町ゆかりの著名人による記念講演の実施につきましても、記念事業の一つの有効な形であると考えております。
このような中で、ノーマン・ミネタ氏は、わが町清水町を父親の故郷とし、日系人初の商務長官や運輸長官を歴任されるなど、アメリカを始めとする国際政治の分野において目覚しい活躍をされております。
同氏は、父親が清水町の出身者であり、また、日本国民としての目線からも誇るに足るアメリカでの成功者としての稀有な人物であることから、議員御提案の同氏による50周年の記念講演につきましても、御本人の意向や日程調整を含め、実施の可能性を検討してまいります。
【まとめ】
是非とも50周年の記念式典でなくとも、どこかのタイミングでできればと思います。是非、実現に向けて取り組んでいただきたいと思います。
町制50周年の記念行事では、3月議会でも「ホッケーを活かしたまちづくりについて」と題して取り上げました。
その後、女子ホッケー「さくらジャパン」は、ロンドンオリンピックに出場し、北京大会より一つ順位を上げて9位という成績を残しました。
さくらジャパンには、9年前の国体で清水町に民泊された選手が3人います。
アテネ、北京と3大会連続で出場しているベテラン選手たちで、伏見区に民泊した加藤明美選手(3番)、本長沢区に民泊した岩尾幸美選手(4番)、八幡区に民泊した藤尾(旧姓千葉)香織選手(11番)です。
加藤選手は、安田善治郎監督の言葉を借りると、「女子ホッケー界の国宝」と呼ばれていて、天理大2年の1990年に初代表となり、キャップ(国代表戦出場)数はロンドン五輪で「387」を数えました。41歳で最年長オリンピック女子ホッケー選手としてギネスに認定されました。
こちらも国体でホッケー会場として取り組んだ清水町にとって素晴らしい出来事です。
是非、ホッケーに関連した事業も町制50周年で検討していただけるよう併せてお願いしまして私の質問を終わります。
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